花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記








 藤原 公任 (ふじわらのきんとう)
966年(康保3年)〜1041年(長久2年)正月一日

平安時代中期の歌人、歌学者。
通称:四条大納言。

父は、関白太政大臣藤原頼忠。
母は、中務卿代明親王の娘・厳子女王。


官位には恵まれなかったが、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)・源俊賢(みなもとのとしかた)と並び、“四納言<寛弘の四納言>”と称され、たたえられた。


『大鏡』巻二によると、藤原道長が大井川<大堰川>で舟遊びを催した際、漢詩の舟・音楽の舟・和歌の舟と三つに分けて、それぞれの芸に秀でた人を乗せたことがあった。公任は和歌の舟に乗り、こういった歌を詠んだ。

 
をぐらやまあらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき

(歌の意:
小倉山と嵐山を吹き降ろす風が寒いので、紅葉が散りかかり、錦の衣を着ない人はひとりもいない

人々は公任の歌を絶賛し、公任自身はのちに、漢詩の舟に乗ってこの歌ほどの漢詩を作れば名声も一層あがったであろうにと口惜しがったという。公任は和歌のほかに漢詩・音楽の道にも長じていた。

この逸話を『三船の誉れ(さんせんのほまれ)』または、『三船の才(さんしゅうのさい)』という。



『紫式部日記』寛弘五年(1008年)11月1日の条に記されているように、敦成親王<のちの後一条天皇>誕生五十日の祝宴の折、紫式部に対して「
あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫の君はいらっしゃいますか)」と呼びかけており、公任も『源氏物語』を読んでいたことがうかがえる。


1026年(万寿3年)、洛北岩倉に所在した解脱寺で出家し、北山の長谷(ながたに)に隠棲したため、北山大納言とも称された。1041年死去、76歳の生涯だった。
藤原公任の朗詠谷


著作には、『拾遺抄』・『金玉集』・『如意宝集』等の私撰集のほか、秀歌撰『三十六人撰』、歌学書『新撰髄脳』・『和歌九品』、歌謡の『和漢朗詠集』、有職故実書『北山抄』、家集『公任集』などがある。


『小倉百人一首』に収められている歌は、以下の歌。

 
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
     
名こそ流れて なほ聞こえけれ
                
                      大納言公任


名古曾滝址(名古曾瀧址)<なこそのたきあと>





【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 角田文衞 監修/古代学協会・古代学研究所 編/
(株)角川学芸出版 発行
「大鏡 全現代語訳」 保坂弘司 訳/講談社学術文庫 発行
「カラー小倉百人一首」 島津忠夫・櫟原聰 編著/京都書房 発行



プラウザの「戻る」で戻ってください。



花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記