花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記風薫る京都大覚寺<紫の縁>




風薫る京都

〜2007年5月20日〜


紫の縁〜源氏物語の世界〜


きゅうさがごしょ       だいかくじもんぜき
旧嵯峨御所 大覚寺門跡

●所在地 :京都市右京区嵯峨大沢町4
●交通 :市バスまたは京都バス「大覚寺」下車
旧嵯峨御所大覚寺門跡ホームページ


↓看板より↓

     大覚寺(旧嵯峨御所)

 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。
 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。
 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。
その外、御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。

          京都市



 嵯峨院は、嵯峨天皇<786年生〜842年崩御>の東宮時代からの別荘が整備されたもので、大堰川畔に広大な敷地を有しており、嵯峨天皇の離宮から上皇御所となりました。
 嵯峨上皇の崩御後、嵯峨院の北東部の一部を貞観18年(876年)嵯峨天皇の皇女・正子内親王<淳和天皇皇后>が清和天皇に上奏して寺に改められ大覚寺と名づけられました。
 初代住職は、嵯峨天皇の孫で正子内親王と淳和天皇の子である恒寂(ごうじゃく)法親王が就かれました。

 また、嵯峨院の南の一部は、源融(みなもとのとおる)<嵯峨天皇第八皇子>の栖霞観(せいかかん。のちに栖霞寺→清凉寺)が営まれました。

 大覚寺の大沢池(おおさわのいけ)は嵯峨院の頃から貴族達が漢詩を詠んだりする場として親しまれていました。



 『源氏物語』第18帖<松風>では、

造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。


(光源氏がご建立なさっている御堂は、大覚寺の南に当たって、滝殿の趣なども、それに負けないくらい素晴らしい寺である。

というように、大覚寺が登場しています。

【本文・訳引用】 渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』

 光源氏が建立されている「嵯峨の御堂(みどう)」は、大覚寺の南にあたり、滝殿の趣なども大覚寺の滝(=名古曽の滝)に負けないくらい素晴らしい寺であるようです。



 2008年は、紫式部が執筆した『源氏物語』(の少なくとも一部)が完成していたと思われる記録から一千年紀を迎えます。
 それを記念して活苴さん主催で『源氏物語』とも縁(ゆかり)のある大覚寺においてイベント“紫の縁〜源氏物語の世界〜”が2007年5月19日から27日までの間に開催されました。
 大覚寺は、歴代天皇または皇族が住職に就かれた門跡寺院で嵯峨御所と呼ばれていた格式高いお寺です。

 そんな大覚寺でのイベントに私と友人たちをはじめ、参加者の皆様は楽しいひとときを過ごしました。


 まず、大覚寺に到着しましたら、嵯峨寮(一般の方は入れません)1階入口にて受付と参加費の支払いをしました。私は十二単のみの申し込みです。(事前に希望すればメイク&カツラも追加でお願いできました/有料)
 受付後、参加証兼領収書をいただきました。氏名欄には、私の名前が書かれているのでモザイクをかけています。参加証兼領収書の下部には切り取り線が表示してあって「しおりとしてお使い下さい」というコメントが書かれています。私は切り取らずに記念にとっています。o(^-^)o


紫の縁〜源氏物語の世界〜 参加証兼領収書


 荷物を預かっていただき、着付部屋で自分が着たいと思う十二単を選びました。たくさんの色があって迷います。同じ色目の十二単であっても模様が違いますので全く同じ十二単はないのです。(十二単に限らず事前に他の装束を選ぶこともできました。)

 着付室で白衣・長袴に着装してから、おかりした貴重品袋を手に嵯峨寮2階の礼拝堂へ移動します。


紫の縁〜源氏物語の世界〜

礼拝堂前で撮影。
私を含め、参加者の皆様はこの姿です。
(顔は修正済み。(^^)v)



これから礼拝堂でご講演を拝聴します。


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