花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記陽春の京都



ふじわらのさだかたのはか
藤原定方墓


●所在地 :京都市山科区勧修寺下ノ茶屋町 →地図を見る
●交通 :地下鉄「小野」下車 徒歩15分
:京阪バス「勧修寺下ノ茶屋町」下車


藤原定方 墓碑

藤原定方墓碑


 藤原高藤と宮道列子の間に生まれた次男・定方の墓です。1723年(享保8年)に建立。

 碑文は読み取れませんでしたが、三条右大臣藤原定方の経歴や家族、勧修寺流藤原氏の後裔の名が刻まれているのだそうです。

 碑は亀の像の上に建っています。これもなんらかの意味があるのでしょうか。
 碑の土台の部分は亀のように見えますが、これは亀ではなく贔屓(ひいき)という中国の伝説上の生物だそうです。<2012年12月編集>

 墓碑の前には榊が供えられ、現在も地域の方に守られている様子がうかがえます。(*^-^*)



藤原定方墓碑 藤原定方 墓碑

墓碑の裏側に、墳墓があります。(-人-) 



 藤原 定方 (ふじわらのさだかた)
873年(貞観15年)〜932年(承平2年)

平安時代中期の官人。歌人。管弦の名手。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれる。
歌集『三条右大臣集』を遺す。

父は、藤原高藤
母は、宮道列子。(宮道弥益の娘)


 姉または妹である胤子(たねこ・いんし)は宇多天皇の女御で醍醐天皇の生母となる。

 定方は子宝に恵まれ、5人の男子と13人の女子が確認されている。

 娘のひとり・能子を醍醐天皇の後宮に入内させる。(能子は醍醐天皇崩御後、天皇の同母弟・敦慶親王と交際を経て、藤原実頼の妻となる。)

 政治家としてよりも文化人としての功績を遺す。
宇多上皇や醍醐天皇主催の歌合で活躍し、醍醐朝の宮廷歌壇活動に寄与した。

 従兄弟で娘婿でもある藤原兼輔、紀貫之や凡河内躬恒とも歌人同士として交流があった。



西暦 元号 定方のできごと
873年 (貞観15年) 藤原高藤の次男として誕生。
887年 (仁和 3年) 胤子の夫が皇位につく。
宇多天皇
892年 (寛平 4年) 内舎人となる。
896年 (寛平 8年) 胤子 卒去。
897年 (寛平 9年) 胤子の子が皇位につく。
醍醐天皇
900年 (昌泰 3年) 父の高藤 薨去。
902年 (延喜 2年) 内裏菊合に参加。
906年 (延喜 6年) 従四位下参議右中将となる。
907年 (延喜 7年) 母の宮道列子 薨去。
913年 (延喜13年) 従三位中納言となる。
亭子院歌合に参加。
919年 (延喜19年) 右大将となる。
920年 (延喜20年) 大納言となる。
924年 (延長 2年) 右大臣となる。
926年 (延長 4年) 従二位に叙せられる。
930年 (延長 8年) 醍醐天皇 崩御
朱雀天皇 即位
931年 (延長 7年) 宇多法皇 崩御
932年 (承平 2年) 薨去。
従一位を追贈される。



 山科に勧修寺を建立したことから、子孫は「勧修寺流」と呼ばれる。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。

 紫式部とその夫・藤原宣孝はともに藤原定方の曾孫にあたる。
また、紫式部が仕えた一条天皇中宮彰子も定方の子孫である。


<管理人のサイト内、関連ページ>
「PICK UP」藤原高藤と宮道列子のロマンス
「PICK UP」藤原高藤と宮道列子のロマンス光源氏のモデル 敦慶親王

<当サイト内、藤原兼輔(定方の娘婿)・紫式部ゆかりの廬山寺のページ>
平安時代好きの京都旅行記陽春の京都廬山寺

<管理人のサイト内、紫式部について>
『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』「紫式部について」


系図




 三条右大臣の名で歌人として知られる藤原定方。
『百人一首』には以下の歌が撰ばれています。


 名にしおはば 逢坂山の さねかづら
   人に知られで くるよしもがな

            三条右大臣


 三条右大臣の歌碑は、宮道神社逢坂関記念公園<滋賀県大津市>、嵯峨野に建立されています。



 定方の子孫にも、『百人一首』に撰ばれた歌人が多いですので系図にしてみました。
系図と歌をご覧くださいませ。

 定方の五男・朝忠(あさただ)の和歌。


 あふことの たえてしなくは なかなかに
   人をも身をも 恨みざらまし

            中納言朝忠


藤原定方の子孫 『百人一首』の歌人

 定方の曾孫(ひまご)世代  :紫式部・藤原公任(きんとう)・藤原実方(さねかた)

 彼らは系図から見てもわかるように同世代の人たちなのですね。
2008年7月23日に発行された切手“ふみの日「百人一首」源氏物語の時代の歌人たち”を思い出します。



 めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
   雲がくれにし 夜半の月かな

            紫式部


 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
   名こそ流れて なほ聞こえけれ

            大納言公任


 かくとだに えやはいぶきの さしも草
   さしも知らじな もゆる思ひを

            藤原実方朝臣




 定方の玄孫(げんそん)世代 :藤原賢子(大弐三位)・藤原定頼・藤原道雅



 ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
   いでそよ人を 忘れやはする

            大弐三位


 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
   あらはれわたる 瀬々の網代木

            権中納言定頼


 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
   人づてならで 言ふよしもがな

            左京大夫道







【参考】
「京都の歴史玄関 やましな盆地」 発行:山科区老人クラブ連合会
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」 編:池上洵一/発行:岩波書店
「カラー 小倉百人一首」 編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:京都書房



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