『花橘亭』「平安時代好きの京都旅行記」初春の京都



初春の京都
〜2007年1月13日〜

たちばなのはやなりていあと
橘逸勢邸址

●所在地 :京都市中京区姉小路通東堀川東入上る東側
●交通 :市バス「堀河御池」下車

橘逸勢邸址

橘逸勢の蛟松殿(はいまつどの)跡


橘逸勢 (たちばなのはやなり)
?〜842年(承和9年)
平安時代前期の官人。能書家。
嵯峨天皇・空海とともに三筆といわれ、能書として尊重されている。

父は、右中弁 橘入居(たちばなのいりい)

橘奈良麻呂の孫にして嵯峨天皇皇后・橘嘉智子の従兄弟。

804年 延暦23年 留学生になり、遣唐使とともに入唐。
806年 大同元年 帰国。唐で「琴書」を学び、「橘秀才」といわれた。
840年 承和7年 但馬権守従五位下。
842年 承和9年 承和の変<仁明天皇の皇太子・恒貞親王が失脚した事件>に罪なくして遠流に処せられ、伊豆下向中、病によって遠江国で没した。
853年 仁寿3年 従四位下が追贈される。
863年 貞観5年 神泉苑で御霊会が行われ、橘逸勢その他の無実の罪によって没した人の怨霊を鎮めた。

橘逸勢は御霊<非業の死を遂げたり、不運な地位に堕とされて憤死した人の怨霊を鎮め、神として祀ること>の一人となり、現在、御霊神社(上御霊神社)下御霊神社に祀られています。





たかまつどのあと
高松殿址

●所在地 :京都市中京区姉小路通新町西入ル津軽町
(高松神明神社)

高松神明神社  高松殿址の石碑は高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)の前にあります。

 平安時代、源高明が「高松殿」を造営した時、天照大御神を勧請して鎮守の社としました。
高松殿址    高松殿址

 高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた源高明(914〜982)の邸宅で、「拾芥抄」に「姉小路北西洞院東高明親王家」と記されている。
 高明の娘、明子は、当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長の室となった。その後、三条天皇の皇子小一条院の御所ともなったが、文献では、治安元年(1021)と、更に百年後の保安元年(1120)に焼亡記事が見える。
 院政期の久安2年(1146)には、鳥羽上皇の命により新造され、造営には大蔵卿となった長門守源師行が当たっている。久寿2年(1155)には、後白河天皇が当所で即位し、保元2年(1157)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
 保元の乱(1156)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地に攻め込んだことはあまりにも有名である、
 その後、平治の乱(1159)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残る。

     京都市
高松神明神社  高松神明神社は、さほど大きくないお社です。
平安時代から現在までを見守ってきた神社なのですね。


御祭神
 天照大神
 八幡大神
 春日大神
神明地蔵尊  神明地蔵尊

 真田幸村の念持仏であり「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されているそうです。



此附近東三条殿址へ




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