初春の京都
〜2007年1月13日〜
とうさんじょうでんあと
東三条殿址
●所在地 | :京都市中京区押小路通釜座西北角 |
●交通 | :市バス「堀河御池」下車 |
東三条院址 東三条院の址はこの辺りを中心として御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。 はじめ醍醐天皇皇子重明親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条院と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。 その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。その華やかな様子は「本朝文粋」にも記されているが、邸は安元3年(1177)に火災で焼失した。 |
かんいんあと
閑院址
●所在地 | :京都市中京区押小路通小川西入古城町 |
●交通 | :市バス「堀河御池」下車 |
押小路通と小川通が交わる所。 閑院の中央部分を南から見ていることになります。 平安末期、高倉天皇が閑院第で即位し、ここを里内裏としました。安徳天皇・後鳥羽天皇も続いて閑院第で即位し、土御門天皇も閑院第を里内裏としました。 |
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画像の黄色で囲まれた枠内に「閑院址」の石碑があったそうです。(^^;) | |
閑院址 ここから北西にあたる西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて藤原氏の邸であったところである。当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。 また高倉天皇の時代(1161〜1181)大内裏が甚だしく荒廃したため閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継するなど朝廷の中心となった所でもある。 以来、後深草天皇に至る九代九十余年間里内裏になっていたが、正元元年(1259)5月に火災で焼失した。 閑院の南殿にて月前松を詠める いまはまた世々をかさぬる 庭の松 ふりてぞみゆる秋の夜の下 〜順徳天皇〜 京都市 |
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家は 近衛の御門。二条、みかゐ、一条もよし。染殿の宮。清和院。すが原の院。れんぜい院。閑院。朱雀院。小野宮。紅梅。あがたのゐど。たけ三条。小八条。小一条。 <小学館発行・新編古典文学全集18「枕草子」 より引用> |