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花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記陽春の京都



ろざんじ
廬山寺

紫式部邸宅址(堤中納言邸址)


●所在地 :京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397 →地図を見る
●交通 :市バス「府立医大病院前」下車 徒歩3分
廬山天台講寺 公式サイト


廬山寺


廬山寺の解説です。クリックしてご覧下さい。



源氏物語 執筆地 紫式部邸宅址

源氏物語 執筆地 紫式部邸宅址



廬山寺

元三大師堂

本尊:元三大師像
左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像を安置されているそうです。



≪廬山寺の起こり≫

 938年 (天慶元年) 比叡山延暦寺中興の祖である元三大師良源が北山に建立した寺院で、当初、与願金剛院と称した。
※良源(りょうげん)は平安中期の天台宗の高僧。元三大師、慈恵大師とも。
1245年 (寛元3年) 後嵯峨天皇の勅によって船岡山の南に移り、廬山天台講寺と改名。
1573年
〜93年
(天正年間) 豊臣秀吉の寺町建設によって、現在地に移転。
    度々の火事に遭う
1794年 (寛政6年) 現在の堂宇が造営される
1965年 (昭和40年)) 角田文衛博士によって、廬山寺は紫式部邸宅址であると発表される。



≪堤第(つつみてい)≫


 堤第(つつみてい)は、平安前期、正親町小路南で東京極大路東の鴨川堤に存在した堤中納言藤原兼輔(つつみちゅうなごん ふじわらのかねすけ)の邸宅。堤中納言邸とも呼ばれる。

 堤第(つつみてい)は、兼輔⇒雅正【息子】⇒為頼・為時【孫】へ伝領され、為時の娘である紫式部【曾孫】も堤第に居住したと考えられる。

 平安京の東側・鴨川との間で二条大路より北の地域(※諸説あり)を“中川(なかがわ)のわたり”と呼んだが、堤第もまた“中川のわたり”にある邸宅であった。
 「中川」の地名は、現在はないが「中川<京極川>」という川が流れていたことにちなむ。


 この堤第跡は、現在の廬山寺を中心とした地域が考えられている。
 
 廬山寺は、かつて紫式部が夫の宣孝を迎え、宣孝の死後は、一人娘の賢子(大弐三位)を育てながら、『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆した地といえる。


 『源氏物語』に登場する空蝉の仮住まいであった紀伊守の邸宅や花散里の邸宅も“中川”に設定されている。





・・・つまり、平安時代に藤原兼輔が住み、のちに兼輔の曾孫である紫式部が住んだ邸宅・堤第(つつみてい)があったとされる土地に、時を経て、廬山寺が移転されてきたのでした。

 以下は、“堤中納言”こと藤原兼輔とその交友関係を中心とした略系図です。

兼輔 系図

 藤原兼輔は、醍醐天皇の叔父である藤原定方の従兄弟であり、定方の娘婿でもあったため、親交が深かったようです。

 兼輔は、歌人の紀貫之(きのつらゆき)や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)とも親しくしており、兼輔・定方・醍醐天皇・敦慶親王の4人は、醍醐朝の和歌文化を高めました。

 兼輔が居住する堤第(つつみてい)は歌人たちが集うサロン的な存在でした。


 藤原兼輔は「中納言兼輔」の名で、藤原定方は「三条右大臣」の名でそれぞれ『百人一首』に和歌が撰ばれています。紀貫之凡河内躬恒の和歌もあわせて以下にご紹介します。


 みかの原 わきて流るる いづみ川
   いつみきとてか 恋しかるらむ


            
中納言兼輔



 名にしおはば 逢坂山の さねかづら
   人に知られで くるよしもがな

            三条右大臣


 人はいさ 心も知らず ふるさとは
   花ぞ昔の 香に匂ひける

            紀貫之


 心あてに 折らばや折らむ 初霜の
   おきまどはせる 白菊の花

            凡河内躬恒





 藤原 兼輔 (ふじわらのかねすけ)
877年(元慶元年)〜933年(承平3年)2月18日

平安前期の公卿。歌人。
中納言兼輔または堤中納言と呼ばれた。紫式部は曾孫にあたる。

父は、藤原利基。
母は、伴氏。

醍醐天皇の叔父である藤原定方の従兄弟で定方娘婿でもあったため、定方の庇護もあり、醍醐天皇に近侍した。

娘の桑子が更衣として醍醐天皇に入内し、章明親王を産む。

親交が深かった敦慶親王(930年2月)・醍醐天皇(930年9月)・藤原定方(932年)の死が相次ぎ、晩年は寂しかった。


西暦 元号 兼輔のできごと
877年 (元慶 元年) 右中将利基の子として誕生
897年 (寛平 9年) 醍醐天皇即位
902年 (延喜 2年) 従五位下
921年 (延喜21年) 参議
924年 (延長 2年) 娘の醍醐天皇更衣桑子が章明親王を出産
927年 (延長 5年) 従三位権中納言
933年 (承平 3年) 中納言兼右衛門督
2月18日 亡くなる


歌集『兼輔集』を遺す。



 人の親の 心は闇に あらねども
   子を思ふ道に まどひぬるかな


       
中納言兼輔 (後撰和歌集)



 上記の歌は、『源氏物語』作中に度々、子を思う親心、闇=子を思うゆえに迷う心 として引用されています。





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