花橘亭〜なぎの旅行記〜平安時代好きの京都旅行記風薫る京都




風薫る京都

〜2007年5月19日〜


新幹線で京都に到着した私は
市バスで智積院会館へ向かいました。



ちしゃくいんかいかん
智積院会館

●所在地 :京都市東山区東大路七条下東瓦町964番地
●交通 :市バス「東山七条」下車


 今回の旅の目的のひとつ。私が大好きな作家さんである永井路子さんの講座を拝聴します!主催は京都国立博物館ですが、講座の開催は博物館に近い智積院会館で行われました。
 
 智積院会館の1階で靴を脱ぎ、永井さんの資料“道長を中心とした女性の系図”や博物館のパンフレットをいただき、3階の大広間へと階段を上がっていきます。大広間は畳の間で毛氈が敷かれており自由に座って拝聴するという形でした。
 中央付近の、前から2列目に座る場所を確保!(^^)v
 永井さんのお顔を間近でしかもナマで拝見できるなんて胸の高まりがおさまりません。

 私は昼食代わりに持ってきていたカロリーメイトを2階のソファーで食べ、再び自分が座る場所に戻りました。大広間には、たくさんの方が来られています。

 今回の講座の開催は京都国立博物館のホームページで知りました。講座を拝聴するには、事前に往復ハガキでの申し込みが必要で、私も受付日の前に往復ハガキを投函したのですが、福岡→京都までの郵便がどのくらいに届くのか不安でいっぱいでした。<申し込み先着:300名>
 受付日の翌日には、京都国立博物館のホームページに、講座の申し込みが定員に達したことが赤字で記されていました。人気のほどがうかがえます。どうか間に合っていますようにと祈っていましたら、無事に受け付けされ案内が印刷されたハガキが家に戻ってきました。よかったです!


 午後1時半になりました。最初に博物館の方のご挨拶があって、永井さんのご登場です。永井さんは白いスーツに青いスカーフをしておられました。写真撮影やサインを求めることや質問は禁止だそうです。うーん。残念。
 でも永井路子さんが、今、目の前にいらっしゃる!!!というだけで私の顔はパーッとほころび嬉しくて大感激でした。




 【土曜講座1600回記念・特別展覧会関連特別講座】
  「『この世』はわが世だったのか―藤原道長―」
   講 師/永井路子氏(作家)



 (※講座を受講して月日が経っていますので、私の妄想もまじえて簡単に以下、ご紹介します。私の思い込みや誤解も含まれている可能性がありますのでご注意ください。)



 『百人一首』をのぞき、平安時代に詠まれた和歌で日本人に広く知られている歌は数少ないことでしょう。そのひとつは藤原道長が詠んだ以下の歌です。

      この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
               欠けたることも なしと思へば




 “『この世』はわが世”と言い切れるようになるまでの道長と道長を取り巻く女性について永井さんはお話をされました。

 藤原道長は、藤原兼家の三男でした(道長の異母兄である道綱をカウントしていません)。兄に藤原道隆・道兼がいます。道長の正妻である源倫子との結婚について倫子の父親である源雅信は反対をしていましたが、母親の藤原穆子のすすめによって結婚とあいなりました。

 当時は、母親が娘の縁談に決定権がありました。穆子は財産(例:一条第という邸宅)を所持しており発言力も大きかったのです。

 平安時代の家族社会のあり方について永井さんは、“双系制”だとホワイトボートに書かれました。当時は妻問い婚とはいえ、父親と母親の経済的権利は重なり合い、子どもは父と母双方のものを受け継いでいくという形です。

 ですが、一家の中の年長の女性が大きな力をもっていました。

 やがて武士の時代となり、父系社会へと変わっていきます。



 ※下の系図は私が作成したものです。他にも人物はいますが必要最低限しか書いていません。


なぎ作成 藤原道長の系図 その1


 藤原道長は源倫子と結婚し、娘をたくさん授かります。そして娘たちをそれぞれ天皇の妃とし、のちに天皇となる皇子を産んだことで外戚として権力を握るようになります。

 これは倫子の母親である穆子が倫子との結婚を認めてくれたおかげでもありますし、倫子が娘をたくさん産んだおかげでもあるのです。さらに入内した娘が天皇となる皇子を産んだという条件が揃って、権力者となれたのです。


 ※下の系図も永井さんの資料系図をもとに私が作成したものです。必要最低限にとどめています。

 当時、叔母と甥の結婚はよくあることでした。



なぎ作成 藤原道長系図 その2
 
 
 道長と源明子との娘・寛子は三条天皇の皇子・敦明親王と結婚します。敦明親王は、後一条天皇の東宮<=皇太子>となりましたが一年で辞退し、小一条院の号を授けられ准太上天皇の待遇を受けました。





 道長の父・兼家の出家により“関白”の位を継いだのが長兄の道隆でした。道隆の娘である定子一条天皇に入内し中宮となります。

 道隆が関白の位につくにあたって、こんなエピソードがあります。
 父・兼家が側近である藤原在国(ふじわらのありくに)と平惟仲(たいらのこれなか)を呼んで、
 「後継者は、長男の道隆と次男の道兼、どちらがいいと思うか?」
と尋ねました。

 これに対して、藤原在国は道兼を推し、平惟仲は道隆を推しました。

 のちに道隆はこの話を耳にして、自分を推さなかった藤原在国を閑職に追いやったといいます。
(講座において、永井さんは実名を出さずに側近A・側近Bという名称でお話くださいました。)


 道隆の死後、道兼は待望の関白職を得ますが、わずか10日余にして急逝。これによって道兼は「七日関白」とも呼ばれます。


 次は道長が関白につくかと思いきや、道長は関白の職を断り、内覧の立場を通しました。内覧とは関白に准する重い官職でした。


 1018年(寛仁2年)10月16日、後一条天皇に入内していた三女の威子が中宮となり、土御門第において饗宴の席で“望月の和歌”を詠みます。この和歌は道長の日記『御堂関白記』には記されていません。

 道長の政治を冷静に見つめていた藤原実資(ふじわらのさねすけ)による日記『小右記(しょうゆうき)』に書き残されており、現在の私たちが知ることになります。

 実資(さねすけ)さん ありがとう!って感じです。


 また、道長は仏教への信仰も篤く、奈良県天川村山上ヶ岳の金峯山(きんぷせん)に登山し、自ら書写した紺紙金字の経巻を金銅製の経筒に納め、経筒を埋納しました。これには、一条天皇に入内した彰子の皇子出産への願いもありました。
 この経筒は、弥勒が現れる56億7千万年後の未来に向けて埋納されたもので56億7千万年後に経筒が出現するであろうと思われていました。

 しかし、江戸時代元禄年間に道長が埋納した経筒が発見されてしまったのです。


 今年、2007年は道長が金峯山に納める経を書写した1007年(寛弘4年)から一千年目にあたります。


 道長にとっての失敗は、即興の和歌である『この世をば』の歌を藤原実資に書き残されてしまったことと、金峯山に埋めた経筒が56億7千万年経たないうちに発見されてしまったことでしょうね。


・・・と、こんな感じで締めくくられました。




 私は前のほうに座っていたため、近づけばすぐそばに永井さんがいらしゃったわけですが、お声をかけることもできませんでした。
 また機会があれば、ぜひとも講演会を拝聴したいです。

 永井さんのお話は大変面白く、楽しくて幸せなひとときでした。



【参考】
『平安時代史事典』CD-ROM版
京都国立博物館ホームページ





次は京都国立博物館へ向かいます。


京都国立博物館へ




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