『花橘亭』「平安時代好きの京都旅行記」春は名のみの京都




俊成社
しゅんぜいしゃ

●所在地 :京都市下京区烏丸松原
●交通 :市バス「烏丸松原」下車 徒歩5分

俊成社

烏丸通沿いにあり、藤原俊成を祀っています。

藤原 俊成 (ふじわらのしゅんぜい・としなり)
1114年(永久2年)〜1204年(元久元年)11月30日
 平安時代後期〜鎌倉時代初期の官人・歌人。
藤原俊忠の子。藤原定家の父。幼い時に父と死別、民部卿顕頼の養子となり名を顕廣といったが54歳の時に俊成と改名。63歳の時に出家し、法名・釋阿。
 
 後白河法皇の院宣を奉じて、1187年(文治3年)『千載和歌集』を撰集。(注/「明月記」には文治4年と記されている)
従三位皇太后宮大夫に至る。

百人一首に以下の歌が収められている。

 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる


                 皇太后宮大夫俊成

勅撰集に415首入集されている平安時代末期の代表的歌人。


俊成社

お社。



俊成社について

藤原俊成と平忠度(ただのり)との和歌の
交流は古くより多くの人に愛されてきました。

 『平家物語』巻第八 忠度都落 では、平家一門が都落ちする際、平忠度は途中で藤原俊成宅へ戻り、忠度が詠んだ和歌百余首を書いた巻物を歌の師である俊成へ差し上げました。

 その後、俊成は『千載和歌集』を撰ぶ時に、忠度の別れの時の様子が思い出されて感慨深かったので、忠度にもらった巻物の中に勅撰和歌集に入れてもいい歌はたくさんあったけれども、忠度は勅勘の身・・・

名字をばあらはされず、「故郷花」といふ題にて、よまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入れられける。

 さざなみや 志賀の都は あれにしを
       むかしながらの 山ざくらかな


(名字を公にされず、「故郷の花」という題で詠まれた歌一首だけを、「読人知らず」としてお入れになった。

 志賀の旧都は荒れてしまったが、長等山(ながらやま)の山桜は昔そのままだなあ )


 朝敵となった平家のことはとやかく言えないこととはいえ、悲しく残念に思う俊成の様子が描かれています。


「株式会社 井筒」北店さんで展示されていた平忠度人形を見てみる?


【本文引用・訳参考】
「新編日本古典文学全集46 平家物語2」 市古貞次 校注・訳者/小学館 発行



引き続き松原通を東へと歩いていきます。



 「源語伝説五条辺 夕顔の墳」石碑へ





『花橘亭』「平安時代好きの京都旅行記」春は名のみの京都