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風薫る京都
〜2007年5月19日〜
うままちじゅうさんじゅうのとう
馬町十三重塔
●所在地 | :京都市東山区茶屋町527(京都国立博物館 敷地内) |
●交通 | :市バス「博物館・三十三間堂前」下車 |
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馬町十三重石塔 二基 北塔(向って右)無銘 南塔(向って左) 永仁三年(1295)銘 高さ 約六メートル 鎌倉時代 この石塔二基は、現在地から北東に五百メートルほどの馬町(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地裏にあった。塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられていた。江戸時代の「都名所図絵」に見るように、北塔は五層、南塔は三層となり、地震で落ちたと思われる上層の石は、塚の土留めとして残されていたという。 昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元された。その際、小さな仏像や塔などの納入品が、南塔の初重塔身の石に設けられた孔の中から発見されている。 両塔は、ともに花崗岩製。南塔(向って左)の基礎正面に、永仁三年(1295)二月、願主法西の刻銘があるが、北塔に銘文はなく、二基の十三重石塔が造られた経緯は明らかにされていない。 |
佐藤 継信<藤原 継信> (さとうつぐのぶ<ふじわらのつぐのぶ>) |
1158年(保元3年)〜1185年(元暦2,年=文治元年) |
平安末期の武士。正式には、佐藤三郎兵衛継信と称する。 父は、佐藤荘司元治(基治とも)。 母は、奥州藤原基衡または清綱の娘。 継信は三男。 奥州藤原秀郷の郎等であったが、奥州に訪れていた源義経が異母兄・源頼朝のもとに馳せ参じる時に秀郷によって、弟・忠信とともに義経に随行を命じられた。 義経に従い平家追討のため西国へ下り、屋島の合戦で義経の身代わりとなり、平教盛(平清盛の異母弟)の矢に射られ戦死する。 注)『平家物語』では能登守平教経に射られたことになっている。 義経は継信のために僧侶を招き菩提を弔い、布施の代わりに秘蔵の名馬・大夫黒を与えた。 |
佐藤 忠信<藤原 忠信> (さとうただのぶ<ふじわらのただのぶ>) |
?〜1186年(文治2年) |
平安末期の武士。 父は、佐藤荘司元治(基治とも)。 母は、奥州藤原基衡または清綱の娘。 忠信は四男。 奥州藤原秀郷の郎等であったが、奥州に訪れていた源義経が異母兄・源頼朝のもとに馳せ参じる時に秀郷によって、兄・継信とともに義経に随行を命じられた。 義経に従い平家追討のため西国に下り活躍。その功績により兄・継信とともに兵衛尉に任官した。 1185年(文治元年)11月、源頼朝と不和になった義経とともに都落ちするが、翌年、1186年(文治2年)9月、都に戻り潜入していたところを鎌倉御家人糟屋藤太有季に発見され、自害した。 |
【参考】 | |
『平安時代史事典』CD-ROM版 | 監修:角田文衞/編:古代学協会・古代学研究所/ 発行:滑p川学芸出版 |
『平家物語を知る事典』 | 著:日下力、鈴木彰、出口久徳/発行:東京堂出版 |
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