初春の京都
〜2007年1月14日〜
とばてんのうこうごうたまこ
鳥羽天皇皇后璋子
花園西陵
●所在地 | :京都市右京区花園扇町 |
●交通 | :市バス「花園扇町」下車 徒歩10分 |
:JR「花園」駅下車 徒歩10分 |
藤原 璋子 (ふじわらのたまこ) |
1101年〜1145年(康和3年〜天養2年=久安元年) |
鳥羽天皇の中宮。 父は、大納言藤原公実。 母は、堀河天皇・鳥羽天皇の乳母典侍藤原光子。 幼い時に祗園の女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり愛育される。 1117年(永久5年)12月、璋子は鳥羽天皇の後宮に入内し女御の宣旨を賜った。翌年正月、璋子は皇后(中宮)に冊立され、三条西殿において立后の儀式を挙げた。 璋子は、顕仁親王<崇徳天皇>、禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王<後白河天皇>・本仁親王(覚性法親王)を産んだ。 顕仁親王が5歳にして皇位につくと、璋子は今上帝の生母であるため院に列せられ、院号を待賢門院と賜った。 白河法皇・鳥羽上皇・待賢門院の三人は三条西殿に同殿し、熊野・東坂本・法勝寺などにしばしば一緒に御幸した。 白河法皇の崩御後、鳥羽上皇のもとに藤原得子(のちの美福門院)が入侍し、待賢門院は法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなった。待賢門院は仏法にも精進していたが、1142年(永治2年=翌康治元年)2月には落飾し法名を真如法といった。 待賢門院は長兄・藤原実行の三条高倉第において、1145年(久安元年)8月22日、鳥羽法皇に看取られて崩じ、法金剛院の北にある五位山の花園西陵に葬られた。 待賢門院に仕えた女房には才媛が多く、西行法師とも歌の交流があった。 |