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初春の京都
〜2007年1月12日〜
でん・のりこないしんのうはか
伝・式子内親王墓
●所在地 | :京都市上京区千本今出川東入ル(般舟院陵・西北) |
●交通 | :市バス「千本今出川」下車 |
百人一首で知られる式子(のりこ・しょくし)内親王の歌 玉のをよ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする |
後白河天皇第3皇女・式子内親王も私にとって興味ある女性の一人です。o(^-^)o ヨウダさんのサイト『平安京探偵団』で伝・式子内親王墓のことを知り、ずっと訪ねてみたいと思っていました。 |
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般舟院陵の敷地内、西北隅に小高い丘(塚)があります。 この塚は式子内親王塚と伝えられてきました。 石仏群の後ろは小高い丘(塚)になっています。 塚の頂上に五輪塔が建っています。 |
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塚の上に建つ五輪塔 |
式子内親王 (のりこないしんのう・しょくしないしんのう) |
1149年(久安5年)〜1201年(建仁元年) |
父は、後白河天皇 母は、藤原季成の女・高倉三位成子。 同母兄妹に亮子内親王(殷富門院)、守覚法親王(仁和寺北院御室)、以仁王、休子内親王、好子内親王がいる。 二条天皇朝の1159年(平治元年)10月25日、11歳で内親王宣下があり、賀茂斎院に卜定され、以後、病で退下する21歳までの10年間、二条・六条・高倉天皇三朝で賀茂斎院として務めた。 1180年(治承4年)、平氏討伐に失敗した弟・以仁王を亡くす。 和歌は藤原俊成を師とし、勅撰和歌集に146首入集。家集「式子内親王集」がある。 謡曲「定家」では、式子内親王の斎院退下後、身の回りの世話をした家司・藤原定家(俊成の子)との間を描いており、式子内親王の忍ぶ恋の相手は藤原定家とみられていたが、近年は定家ではなく法然に擬する見解が有力となっている。 1190年または1191年(建久元年または建久2年)、出家し、法名を承如法といった。しかし病篤く、1201年(建仁元年)正月二十五日に薨じた。 大炊御門斎院、萱斎院、四条斎院、小斎院、高倉宮などと呼称された。 |
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