藤原 定家 (ふじわらのさだいえ・ていか) |
1162年(応保2年)〜1241年(仁治2年) |
父は、藤原俊成。母は、藤原親忠女(美福門院加賀)。 平安時代末期〜鎌倉時代初期の歌人。歌学者、古典学者。 京極中納言(黄門)と称された。法名は明静(みようじよう)。 『古今和歌集』の撰者のひとり。『新勅撰和歌集』の撰者。 家集に『拾遺愚草』があるほか、歌論書として1221年(承久3年)に『顕註密勘』、承久年間に『毎月抄』などを著した。最晩年の歌論書に『詠歌大概』がある。そのほか歌学書も著している。 1235年(文暦2年)5月27日、宇都宮入道蓮生(藤原頼綱)の依頼に応じて『小倉百人一首』(成立には諸説ある)を編んだ。 『小倉百人一首』に収められている藤原定家の歌。 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ また、『源氏物語』『古今和歌集』『土佐日記』などの古典文学作品や古記録・仏典などの幅広い範囲のものを書写校勘(=異なる版本とつきあわせて異同その他を著すこと。校訂。の意)した。 1180年(治承4年)〜1235年(嘉禎元年)までを記した日記『明月記』がある。平安末期から鎌倉時代初期を知るための貴重な資料と目されている。 定家は書も巧みで個性的であり「定家様(ていかよう)」と呼ばれ、後世、尊重された。 |