『花橘亭』「平安時代好きの京都旅行記」初春の京都



初春の京都
〜2007年1月13日〜

たいらのしげひらのはか
平重衡の墓

●所在地 :京都市伏見区醍醐外山街道町
●交通 :地下鉄「石田」駅下車 徒歩20分


平重衡の墓

     平重衡塚

 この地は、平重衡の北ノ方大納言佐局が、平家没落後、身をよせていたところと伝えられる。一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって前年の南都焼打の責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引渡されたが、途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。木津河原において首をはねられた重衡の遺骸は、すぐさま引取られ、火葬後、この地に埋葬されたといわれる。

     京都市

墓は住宅地に囲まれた公園にあり、落ち着いた雰囲気でした。


平重衡 (たいらのしげひら)
1157年(保元2年)〜1185年(元暦2年=文治元年)
平安末期の武将。
父は、平清盛(平清盛の五男)。
母は、平時子。

 1180年(治承4年)12月、反平氏勢力の拠点である南都攻撃の総大将となり、東大寺・興福寺を焼亡させた。
 1182年(寿永2年)平家一門は都落ちし大宰府へ。
 1184年(寿永3年=元暦元年)元日、一ノ谷合戦で平氏軍は大敗し、重衡は捕らえられて2月に入京。3月、関東に護送され尋問を受けるが、源頼朝は重衡を丁重な待遇をした。
 しかし焼き討ちを恨む東大寺・興福寺の衆徒による要求により、身柄を南都に引き渡された。
 1185年(文治元年)6月23日、木津川の河畔で処刑され首を奈良坂で梟された。亡骸は、重衡の北の方である大納言典侍・藤原輔子に引き取られ、日野で荼毘(だび)に付され埋葬されたという。
 平重衡は、平家一門の中でも武勇に優れ、和歌や琵琶・笛にも長けていた人物であった。





こののち地下鉄で「烏丸御池」へ移動します。



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