『花橘亭〜なぎの旅行記〜』「平安時代好きの京都旅行記」新緑の京都



新緑の京都

2008年5月18日



淳和院跡

●所在地 :京都市右京区西院高山寺町18番地6
●交通 :バス「西大路四条」下車




高山寺(こうざんじ)




 西大路四条、高山寺(こうざんじ)の前に淳和院跡をしめす石柱が建っています。

 淳和院(じゅんないん)は、平安時代の淳和天皇が譲位したのちに住んだ御所で西院とも呼ばれました。(淳和天皇は皇太子時代から、当所を御所としていました。)

 淳和院は、淳和上皇とその異母兄・嵯峨上皇との遊宴の場としてにも愛された御所だそうです。

 淳和上皇崩御後は、皇后の正子内親王の御所ともなりました。
 貞観16年(874)4月火災に遭ったのち、再建後は仏道修行の道場に改められたのだとか。


 現在、高山寺の近くにある「ジョーシン京都1ばん館」(右京区西院巽町38)の西側の壁には淳和院跡の説明板があります。




ジョーシン京都1ばん館



     淳和院跡

 淳和院は西院ともよばれ、現在の地名のもとになっている。

 淳和院の位置は、四条大路(現在の四条通)の北、道祖大路(現在の佐井通)の東で、大正時代までこの北方にあった通称「飯の山」が、淳和院にあった池の中島であったとする説に従えば、南北516m・東西252mの広大な敷地を占めていたことになる。

 淳和天皇は、833(天長10)年に位を仁明天皇に譲り、上皇となって840(承和7)年に亡くなるまでこの院で過ごされた。

 淳和上皇が亡くなった後、皇后正子がこの院を寺とし、以後は仏教道場として使用された。

 「日本三大実録」によると、874(貞観16)年4月19日夜半、淳和院から出火、火の勢いは激しく、内裏(現在の千本丸太町の北方)にまで火の粉が飛んだと記されている。その後、淳和院は再建されたが、規模や廃絶した時期については明らかではない。

 当ビル建設前の平成4〜5年にかけて発掘調査が行われ、南北17m・東西10mもある大規模な建物建物跡をはじめとする堀立柱建物群、四条大路や道祖大路の側溝、門跡などがみつかっている。

 遺物としては平安時代の瓦が大量に出土したほか、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器などの日常品や、中国から輸入された当時の貴重品である壺の破片などがある。また銅の鋳物の滓、鋳型の破片、未製品の釘、家具などに使用する金具などが多数出土しており、付近には金物を製作する工房が存在した可能性もある。

 今回の発掘調査によって淳和院の西南の一角が明らかとなり、平安前期の天皇家の後院を知る上で重要な成果を得ることができた。




次に訪ねる西院春日が神社には
淳和院跡の礎石があります。(*^-^)b



西院春日神社へ




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